知育コラム
 
我が子を教える親になる

世の中にはただ与えておけば子どもが勝手に遊んでくれる教材があふれています。キャラクターを用いたカラフルな教材に子どもは興味を示し喜んで取り組みます。内容が易しいので楽々出来てどの子もそれなりの達成感を味わいます。子どもが次々と課題に取り組み、次々と正しい答えを出すことは大きな説得力であり親に満足感を与えます。

シールを貼ったり、線でつないだり、丸で囲んだり、たとえ易しくても教材は教材です。アニメやゲームに夢中になることに比べれば教育効果は十分に期待できますから、このような教材は子どもには楽しみを与え、親には安心感を与える「幸せを売る商品」だと言えます。

けれど、「与えておけば子どもが勝手に取り組む教材」「どの子も簡単にできる教材」で良いのでしょうか。壁に突き当たって困難を感じ、間違えたり直したりどうしてもわからなかったりという葛藤の過程こそが脳を働かせること、知能を使うことではないでしょうか。すらすらと出来てしまうということは既に知っていることわかっていることの証明です。

脳を働かせ知能を使わせるには少し難しい課題を与えることです。難しすぎてはやる気を無くしますし簡単すぎては「知能に刺激を与える」ことが出来ません。まず、子どもの性質と発達段階、意欲と得手不得手を把握しましょう。幼児期は発達段階に大きな差があります。また、子どもの意欲はその日の体調、その時間の疲れ具合、その時の気分に大きく左右されます。これらのことを考慮した上で少し難しい課題を与え、言葉がけで導き、理解度を観察し、励まし、認め、褒めるという、親の手を煩わし、親の時間を奪うような「面倒くさい」取り組みが必要となります。

教育の基本は家庭教育にあります。特に幼児期と小学校においては教育に対する親の姿勢がそのまま子どもに反映すると言っても過言ではないと思います。ですが、基本は家庭教育とは言っても「我が子を教えるのは難しい」ものです。経済的・時間的に余裕があれば幼児教室に通わせるのは賢明なことだと思います。

けれど、経済的理由はもちろんですが地理的な環境や勤務の都合で教室に通わせることができない状況ではどうすれば良いのでしょうか? 私の独断ですが答えはひとつ。「我が子を幼児教室に通わせる親」以上にがんばる親になることです。「我が子を教えるのは難しい」という現実を踏まえた上で我が子を教える親になることです。

 
認めることの大切さ

子育ての方法として「褒めて育てる」「褒めて伸ばす」ことを否定する人はいないと思います。厳しく指摘されたり叱責されるのは大人であっても面白くないことで、そんなことが続けば誰だってやる気を無くします。子どもに限らず人は何歳になっても褒められるのはうれしく、褒められればやる気が起きるものです。

けれど、子どもを「褒める」というのは結構難しいことです。思春期になればある程度の社会性を身につけますから、相手が本気で褒めているのか、上っ面で褒めているのか、お為ごかしで褒めているのか、おべっかで褒めているのか、褒められることにもいろんな意味があることを知っています。幼児や小学生は、その場の状況や相手の心理を読み取る能力が未熟です。「褒めて育てる」「褒めて伸ばす」のは真理ですが、「褒めすぎない」ことも忘れてはいけないと思います。

はきはきして明るい子は人から褒められることが多く、引っ込み思案で無口な子は褒められる機会が少ないでしょう。しかし、人間として、また人生において活発で外向的な性格が優れていて穏和で内向的な性格が劣っている訳ではありません。また、同年代と比べて発達が早い子は褒められ発達が遅い子はあまり褒められる機会が無いでしょう。

このような差異は個性そのものです。「神童も二十歳過ぎればただの人」と言われるように早熟で利発だからといってそのまま伸びるとは限りません。もしかしたら幼い頃から褒められすぎて「ただの人」になってしまったのかも知れないのです。そう考えると「簡単には褒めない」という姿勢も侮れません。

「褒める」というのは、人よりも優れているという評価の言葉です。日常生活で本当に感心できる良いことをしたとき(お手伝いや親切など思いやりを見せたとき)、積木やレゴでがんばって何かを作ったとき、教材などの課題を本当に自分の力で解決したときには十分に褒めてあげましょう。

私は「褒めて育てる」「褒めて伸ばす」を「認めて育てる」「認めて伸ばす」と置き換えたいと考えます。褒めるほどのことではなくても日常の約束事を一つでも守れたとき、何かに意欲を見せて真剣に取り組んだとき、心でも行動でも知識でも子どもの成長が確かめられたときには褒めないまでも「認めてあげる」ことが大切だと思います。言葉で褒めなくても目と目を合わせたり、肩や頭をなでてあげたり「認める」やり方はいろいろあると思います。
 
早期教育

水泳、卓球、野球、ゴルフ、サッカー、フィギュアスケートなどでは幼少期からの英才教育が実り人間的にも素晴らしい選手たちが活躍しているのでスポーツの早期教育を否定する人はあまりいません。

ピアノやバイオリンなど英才教育が不可欠な分野でも早期教育を否定する人はあまりいません。

ところが知能の早期教育となるとまるで鬼の首を取ったように強く否定する人がいます。ですから、テレビ番組で早期教育の効果を取り上げるときには否定的な意見もあることが必ず盛り込まれます。
早期教育(ウィキペディア)

スポーツや音楽はあるひとつの専門分野ですから「幼児期からこんな指導をしていました。幼児期からこんなことが出来ていました。今があるのは幼児期から始めたからです。」という親の言葉は説得力があります。これは、早期教育を行ったことと現在一流のスポーツマン(音楽家)であることの因果関係の証明と見なされるからです。(科学的な証明ではありませんが)

ところが知育はこのような因果関係の証明が出来ないのです。昔、早期教育を実施している幼稚園の園長先生がこう言われました。「今、子どもたちに教えていても誰もそのことを覚えてはいない。この子たちが一流大学に入ってもその理由が早期教育にあるかどうかは誰にもわからない。小学校で伸びた、中学校で伸びたと言う親はいても、幼稚園で伸びたという親はいない。けれど私は、今この子たちを教えることは必ずこの子たちの将来に生きてくると信じています。」

「幼児教育は人的資本への投資という観点からみても効率的である。」
小学校は5歳児から 池田信夫さんのブログ

 
褒めない育て方

こんなブログを見つけました。
-----『NurtureShock』 子供は誉めたら伸びるのか、実は逆効果なのか?-----

私なりに解釈してみました。

賢い子は皆から褒められるので「自分はできる」と思い込んでしまいます。けれど、いくら「できる子」でも苦手な分野はあります。しかし、褒められることが当たり前で育ってしまうと、褒められる可能性が低い苦手な分野に挑戦する意欲が薄れて行きます。・・・そんな気持ち、わかりますね。皆より秀でていることを示せば人は褒めてくれますが、自らの弱点を克服しても人はあんまり褒めてくれません。

苦労して困難な道を行くよりも、少しでも楽な道をと探してしまうのは大人も子どもも同じなのでしょう。困難な道を行くには強い動機が必要です。

「出来たから偉い」「これが出来たのはすごい」という褒め方を繰り返すと、子どもは褒められることを目的化するようになってしまいます。そして「えらい」「すごい」と言って貰えそうもないことに挑戦するパワーが弱くなってしまいます。

褒める時は「なにが良かったか」「どこが良かったか」を具体的に説明して、頑張って努力すれば「なにがもっと出来るようになるか」「どこがもっと出来るようになるか」をわからせることが大切なのでしょう。

誰だか覚えていませんが・・・音楽家かスポーツ選手かどちらかのような(女性でした)・・・(大会で優勝して)テレビでこう言っていました。「私の母はとても厳しい人で、(幼い頃から一度も)私は母に褒められた記憶がありません。けれど、今回のことを報告したら(生まれて初めて)母は私を褒めてくれました。何よりもそれがうれしいです。」
「褒めない子育て」ができるのは、このお母さんのような鉄の女だけです。

我々凡人にできるのは「褒めて育てる」。しかし、「褒めすぎない」「褒め方を工夫する」ということでしょうか?


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